読んだ本に出てきた町に、住むことになる。
(夏目坂)
親愛なる君に

大学時代、最も長く住んでいたのは、早稲田の夏目坂でした。
マンションを夏目坂に選んだのは、
文学部の裏にあって通学に便利というだけでなく、
文豪の魂を受けるという理由もありました。
一高・東大の夏目漱石は、早稲田に生まれて、早稲田で死にました。
夏目坂というのは、夏目漱石にちなんだのだと思っていました。
実はそうではなく、
この地の名主だった漱石のお父さんの名にちなんだものです。
夏目坂を上がったところにある喜久井町という町名も、
夏目家の家紋の「井戸の中に菊」からきています。
文字通り、『坊っちゃん』だったのです。
漱石は、文豪と呼ばれていますが、
まじめな恋愛小説家です。
僕が、高校時代、いちばん好きだったのが「こころ」です。
文豪の作品としてではなく、
恋愛小説として、僕は読みました。
「こころ」を読んだおかげで、そこに住むことにしたといってもいいくらいです。
「こころ」は、お墓参りの回想から、物語が始まります。
マンションの窓から見えるお墓が、
「こころ」に出てくるお墓のような気がしていました。
タクシーで帰る時、「早稲田・夏目坂へお願いします」という響きが好きでした。
最も熱い4年間を夏目坂で暮らしたおかげで、
今の本を書くという人生に、「夏目坂」の地霊が、
助けてくれているに違いありません。

                        中谷彰宏拝
P.S.
もうひとつ、「夏目坂」にした理由がありました。
夏目雅子さんが、好きだったということでした。