食べるためにむくのではなく、むくために食べる。
(皮つき甘栗)
親愛なる君に

まりあが、京都のお土産に、天津甘栗を買ってきてくれました。
新鮮でした。
「皮つき」だったのです。
最近、「むいちゃいました」ばかり食べているので、
いつのまにか「皮なし」が当たり前になって、
「皮つき」と言っている自分が新鮮でした。
栗の皮をむくには、コツが要ります。
ツメのたて方が弱すぎると、渋皮がむけないし、
強すぎると、身をこなごなにしてしまって、逆に取れにくくなってしまいます。
かといって、スプーンでほじくるような野暮なこともしたくありません。
キレイにむけると、かなり幸せな気分になります。
いくつもむいているうちに、だんだんむき方のコツがつかめてきて、
きれいにむけるようになります。
きれいにむけるようになったあたりで、栗がなくなります。
気がつくと、食べるためにむいているのではなく、
きれいにむくために、食べているのです。
きれいにむけた栗は、自分で食べずに、女の子にあげます。
失敗作は、自分で食べます。
女の子に、果物をむくのが好きなところは、父親の遺伝です。
あれは、尽くしているのではなく、きれいにむきたいという
芸術欲なんですね。
こういう親子には、栗は「皮つき」が、ムイテイマス。(どんどん)

                        中谷彰宏拝
P.S.
キレイにむけたのを、あげるね。